『ピンクエレファンツ20周年を誇る!』ピンク・エレファンツ団長  高野 孟

 ピンクエレファンツが、新宿ゴールデン街の片隅にあったバーでの飲み仲間の冗談話から誕生して、間もなく20周年を迎える。2度、3度と世代交代を繰り返し、その間にはいろいろ曲折もあったものの、初期メンバーの中にはいまだに現役で試合に出ている者もいるし、オーバー40の試合や宴会ともなれば、私をはじめとしてすでに名誉団員のようになっている者も含めて何人もの初期メンバーが集まってくる。20年間ともかくも存続したこと自体が大変なことであるというのに、それだけでなく、老・壮・青がそれぞれなりにラグビーで遊び、クラブライフを楽しむことが出来るような、技術としては二流か三流かもしれないが、運営のあり方としては一流のクラブクラブとして発展してきたことを、心底、誇りに思いたい。

 新宿のバーは「ふらて」(後に「ゴールデン・ダスト」)と「銀河系」で、編集者や物書きがよく集まる場所だった。ラグビーをやろうと言い出したのは、『週刊ポスト』のライターから作家に転じた森詠で、それを聞いた私(ジャーナリスト=インサイダー編集長)、坂本隆(週刊ポスト編集者/のち編集長)、鬼木真人(週刊プレイボーイ編集者/のち編集長)など居合わせた面々は、「何を言ってるんだ」「やめたほうがいいよ」「首の骨を折るのがオチだぜ」などと、最初のうち全く取り合わなかった。この中では、鬼木だけが都立大でホンチャンをやっていたラガーで、私は、小学校の担任の先生の影響でラグビー好きになり、高校の時は(本業はブラスバンドだったから)クラス対抗でラグビーやアメフトをちょっとだけやったことがあるという程度、坂本は高校からずっとサッカー現役だがラグビーは素人、森本人ももちろん未経験。これでは、やめたほうがいいに決まっている。

 だが森は、やるんだ、やるんだと、ウワゴトのように言い続け、じゃあ仕方がない、一度練習だけでもやってみようかということになったものの、どこでやったらいいかも分からない。ボールを一個買って、神宮外苑の絵画館前に10人かそこらが集まってパスの真似事をしたのが、このクラブの始まりだった。そのうち段々本気になって、森前団長(当時は会長)、鬼木初代キャプテン、「ふらて」のママの中村以久子が初代マネージャーという体制も整って、恐る恐る、出来るだけ弱そうな相手にお願いして対外試合をするようになったのである。

 翌年、2代目のキャプテンになったのが私で、その頃から、(1)我々はラグビーをあくまで楽しむのであること、(2)しかし楽しむにはいい加減では駄目で、楽しむためにこそ真剣に取り組むこと、(3)ゲームを楽しむだけでなく、我々にはクラブハウスも専用グランドもないけれどもクラブなのであるから、仲間同士や対戦相手との人間的なお付き合いを楽しむべきこと、(4)ほとんどが素人なのだから、練習に熱心に来ている者を優先的に試合に出すようにして、余り練習に来ない経験者やその時限りの助っ人を出して手っ取り早くゲームに勝とうとするようなやり方はしないこと──など、運営の原則が次第に確立されていった。特に(4)は大事なことで、この初期の頃の対戦相手クラブの多くが今は消滅してしまっているにも関わらずウチが存続している大きな理由の1つは、これではないかと思っている。

 今はすっかり若い人たちの時代になって、こんなことも年寄りの思い出話でしかない。が、第2世代に当たる李スンイル(第6代キャプテン)らの時代に、上記のいくつかの運営原則にプラスして「年寄りを大事にする」という敬老精神条項が付け加えられて、そのおかげで私やその同世代もいまだに大きな顔をして先輩風を吹かし続けることが出来る。ありがたいことである。ラグビーに限らず、およそスポーツはすべて生涯スポーツでなければならないし、そのためにはヨーロッパ型のクラブという仕組みがなくてはならないと思う。年取ったらゲートボールか、せいぜいがゴルフというのではあまりに寂しいではないか。いや私もゴルフは好きで、今もスキルアップに努めているし、野外乗馬は競技にも出ているし、たまには川や海のカヌーにも挑戦しているが、やっぱり死ぬまでラグビーに付き合っていきたい。間もなく還暦を迎える私が、10年後も20年後も、生きてさえいればラグビーのある暮らしを続けていくことが出来る、そういう場としてピンクエレファンツがますます発展してほしいと願っている。



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